塚原学園の思い出(2)

六万石

2017年03月10日 00:57

こういう記事はどうしても主観的あるいは感傷的になりがちなので、事実だけを記したい。

昭和36年当時、日本全体が、「もはや戦後ではない」、すなわち日本の高度成長の始まりの頃で、巷に植木等(うえきひとし)「スーダラ節」が流れ、学校関係では生徒の急増期であった。

・松本市の私立高校といえば、戦前からの松商学園が存在して、新設の塚原学園はその後塵を拝するような、世間の位置づけであった。

・スポーツが盛んで、ことに女子陸上部は県トップクラス。とりわけ沖よし江選手が女子やり投げで県記録を更新し、全国でもトップレベルで、たしか、大学進学後に、全日本チャンピオン。

・成績優秀あるいは特技を持つ生徒には、授業料免除+学費給付、の制度があり、
そうした生徒のなかに、信州大学に合格する者もいた。商業科には算盤(そろばん)日本一という者もいた。

音楽科という、特色のある学科があり、一人一人にピアノの個室が与えられていた。その音楽科では、英語に加えて、ドイツ語が必修で、担当していたのが、信大独文科出身(註 独文というとすごく頭いい)岩田先生(仮名)で、教材は大学教養課程のテキストをそのまま使っていた。

・音楽科の生徒と一緒に、豊科駅から徒歩で、須砂渡(常念岳の麓・朝ドラ「おひさま」のロケ地))までハイキングしたことがある。その道すがら生徒らは、次から次へと歌ってくれた。

      ♪ Sah ein Knab' ein Röslein stehn,

ウエルナーの、そしてシューベルトの「野ばら」が、
春の安曇野にこだました。

この学校の文化は高い、
そう思った。

・理事長兼校長の塚原善兵衛さんは、塚原天竜高校(下伊那の新設姉妹校)とかけもちで、本校(松本校)へ校長が来ると、いつ、なんどきでも、「只今学校長が到着しました。全員、体育館に集まりなさい」の全校放送が入った。
その場合、職員は、すぐに授業を止めて、校長室へ直行し
「校長先生、おはようございます」
「ああ、おはよう」
と挨拶を交わす慣わしがあった。

私は最初、そのことを知らず、生徒を体育館に誘導して待機していたら朝礼で、「新人の佐藤先生は大学で学問はできたかもしれないが、挨拶を知らない。みなさん、社会人になったら気を付けましょうね」と、全校生徒の前で、なじられた。

・善兵衛さんは、とりわけ野球部に力をいれ、試合の際はベンチの外からサインを出していた。ベンチにいる監督は「型無し」だった。

・試合に敗れると、翌日の朝礼で野球部は、全校生徒の前に正座させられた。
「1回表のチャンスで、私が、1球待て、のサインを出したのに、君はどうして打ってしまったのか」
などと、1回表から9回裏まで、微に入り細を穿つ「お説教」が、延々と続いた。
「あれほどフォアボールは出すなと言ったのに、なんでフォアボールを出したのか」
など、無茶苦茶だった。

善兵衛さんがらみの面白い話は、まだまだいろいろとありますが、いずれ次回。

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2017.3.9


左の建物が体育館。
昔ながらに残っている。
我らの青春 ここにありき
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当時の生徒らは、すでに喜寿に近い年齢のはず。
おそらく、インターネットの環境にないと思われます。
でも、もしかしたら、お子さん、あるいはお孫さんが、
この記事を目にされるかもしれない
そういう思いで、今、書いております。

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