2012年08月03日

塚原学園物語

塚原学園(現 創造学園)

塚原学園物語
屋上に見えるドームは、本物の天文台で、
当時、国産第1号の望遠鏡が導入され、開所式も行われた(昭和37年)。

この校舎は、昭和36年,私が赴任した当時は、
北側(画像右側)半分だけができていて、
南側(画像左側)は、ちょうど基礎工事が行われていた。

塚原善兵衛、理事長兼学校長から、
「若い先生方は工事を手伝いなさい」
との命令が出て、私も、作業に参加し、必死で土を運んだりしたものだ。

当時、生徒の急増期で、全校生徒数1500名。
普通科、商業科、工業科、家政科。
さらには、音楽科。
音楽科の生徒らはピアノ室(個室)まで与えられていた。

私が英語を担当していた女子商業科は1クラス63名。
後方の席の生徒らが、かすんで見えた。


現在の正面口。

塚原学園物語


塚原学園物語

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和40年代に教職員組合の労働紛争があり、
生徒が減ってしまい、
一時は廃校寸前まで追い込まれていた。

バレーボールの名将壬生監督を校長におし立てて盛り返した。

春高バレーで、知名度は全国レベルとなっている。


来年、JR村井駅前に移転するとのこと。

塚原学園物語
(これは、篠ノ井線の車中からの写真です)

塚原学園物語


塚原学園物語

始業時間前とあって、このベランダに女子生徒が、大勢出ていた。

履歴書を持って校長室へ。
塚原善兵衛といえば、知る人ぞ知るワンマン校長(理事長)
初対面で、圧倒された。

校長は私が差し出した履歴書には目もくれず
「よくきてくださった。本日付で、臨時採用します」
ということで、面接は一瞬で終わった。

職員会で、「この人は英語の専門家」と紹介された
体育館に1500名の生徒が集まり、新任の挨拶をすることになった。

「市街地の喧騒から離れた、この静かな環境で、皆さんと共に・・・」
などと、ありきたりの挨拶をしたら、校長が、再び壇上にあがり、
「この先生は英語の専門の先生で」などと補足している。

あとでわかったのだが、この学校には英語を「主免」とする先生がおらず、
社会科とか、国語とかの先生が、英語を「副免」で教えていたのだ。
そのことを県から指摘され、早急の改善を求められれていたらしい。

はじめは、週3日ということだったが、夏休みを過ぎ秋口からは
フルタイムの勤務となり、担当するクラスも増えた。

家庭科、普通科、女子商業科、さらには音楽科まで持たされた。
とりわけ女子商業科は、63名のクラスで、
とてもじゃないが、生徒全員には目が届かなかった。

 Read after me  いいか、後ついて読めよ!

生徒らは、喜々として読んでいた。
大合唱だった。

(続く)
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時の生徒らは、すでに喜寿に近い年齢のはず。
おそらく、インターネットの環境にないと思われます。
でも、もしかしたら、お子さん、あるいはお孫さんが、
この記事を目にされるかもしれない
そういう思いで、今、書いております。
                              2017..3.6 (MON)

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思い出(2)

こういう記事はどうしても主観的あるいは感傷的になりがちなので、事実だけを記したい。

・昭和36年当時、日本全体が、「もはや戦後ではない」、すなわち日本の高度成長の始まりの頃で、巷に植木等(うえきひとし)「スーダラ節」が流れ、学校関係では生徒の急増期であった。

・松本市の私立高校といえば、戦前からの松商学園が存在して、新設の塚原学園はその後塵を拝するような、世間の位置づけであった。

・スポーツが盛んで、ことに女子陸上部は県トップクラス。とりわけ沖よし江選手が女子やり投げで県記録を更新し、全国でもトップレベルで、たしか、大学進学後に、全日本チャンピオン。

・成績優秀あるいは特技を持つ生徒には、授業料免除+学費給付、の制度があり、
そうした生徒のなかに、信州大学に合格する者もいた。商業科には算盤(そろばん)日本一という者もいた。

・音楽科という、特色のある学科があり、一人一人にピアノの個室が与えられていた。その音楽科では、英語に加えて、ドイツ語が必修で、担当していたのが、信大の独文科出身(註 独文というとすごく頭いい)岩田先生(仮名)で、教材は大学教養課程のテキストをそのまま使っていた。

・音楽科の生徒と一緒に、豊科駅から徒歩で、須砂渡(常念岳の麓・朝ドラ「おひさま」のロケ地))までハイキングしたことがある。その道すがら生徒らは、次から次へと歌ってくれた。

      ♪ Sah ein Knab' ein Röslein stehn,

ウエルナーの、そしてシューベルトの「野ばら」が、春の安曇野にこだました。
この学校の文化は高い、そう思った。

・理事長兼校長の塚原善兵衛さんは、塚原天竜高校(下伊那の新設姉妹校)とかけもちで、本校(松本校)へ校長が来ると、いつ、なんどきでも、「只今学校長が到着しました。全員、体育館に集まりなさい」の全校放送が入った。
その場合、職員は、すぐに授業を止めて、校長室へ直行し
「校長先生、おはようございます」
「ああ、おはよう」
と挨拶を交わす慣わしがあった。

私は最初、そのことを知らず、生徒を体育館に誘導して待機していたら朝礼で、「新人の佐藤先生は大学で学問はできたかもしれないが、挨拶を知らない。みなさん、社会人になったら気を付けましょうね」と、全校生徒の前で、なじられた。

・善兵衛さんは、とりわけ野球部に力をいれ、試合の際はベンチの外からサインを出していた。ベンチにいる監督は「型無し」だった。

・試合に敗れると、翌日の朝礼で野球部は、全校生徒の前に正座させられた。
「1回表のチャンスで、私が、1球待て、のサインを出したのに、君はどうして打ってしまったのか」
などと、1回表から9回裏まで、微に入り細を穿つ「お説教」が、延々と続いた。
「あれほどフォアボールは出すなと言ったのに、なんでフォアボールを出したのか」
など、無茶苦茶だった。

善兵衛さんがらみの面白い話は、まだまだいろいろとありますが、いずれ次回。
2017.3.9
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思い出 (3)


宿直合宿

夏目漱石 「坊ちゃん」を引き合いにだすまでもなく、日本の学校では昔から「宿直」という名の、特殊勤務があった。夜間に教師が、たいていの場合二人組で、学校に泊まり込み夜間、学校の警備を行っていた。

今は、多くの学校がセコムなどのセキュリティを導入していて、職員の「宿直」は、なくなった。ただし、「宿直室だった」という小部屋が、残っている学校が多く、職員休養室とか、生徒指導特別室などになっている。

ところで、当時の塚原学園は、人件費の節約のため、行政職の「校用技師(古い言葉で言うと「小使いさん」)を置いていなかった。学校の電気、ガス、水道の管理や戸締りなど、本来は行政職のやるべき仕事を、宿直当番の教師に任された。

年配の先生方は宿直当番を嫌がっていた。私は、そういう先生方に代わって、頻繁に当番を引き受けていた。なぜか。「手当」がつく。若い独身の教師にとって、「宿直手当」は魅力であった。

さらに塚原学園の場合には、もう一つの魅力があった。
女子生徒らが5人グループで、合宿所に泊まり込む「宿直実習合宿」であった。その生徒らが、夕食+(翌日の)朝食+昼食 まで面倒を見てくれる。参加した生徒らには「家庭科総合実習」の単位が与えられた。

人件費節約を第一に考えた塚原善兵衛さんの発案であるが、今、振り返ってみると、塚原学園の「宿直合宿」には、教育的効果も十分にあったのではないかと思う。

合宿所で生徒らに、英語の歌(※1)を教えてやったり
「怪談話」(※2)をしてやったり、
夜間に、校内の水道が凍りつくことのないように巡視したり、
みんなで屋上に上がり、松本市街の灯りを見下ろしたり・・・・。

二度と帰らぬ青春の、
よき思い出となっているのではないだろうか。

♪ 凍れる星影 北斗はさえて
  うるむ瞳の中空に
  鈍く光れるドームを仰ぎゃ
  ああわが学び舎の 灯は消えず
                         岩崎令先生(文中では岩田先生) 作詞作曲

塚原学園物語


      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※1 英語の歌というのは
大砂塵(原題・英語: Johnny Guitar)
1954年(昭和29年)製作の西部劇。原作はロイ・チャンスラーの小説

主題歌『ジャニー・ギター』。
Play the guitar,
play it again, my Johnny
May be you're cold,
but you're so warm inside
I was always a fool for my Johnny
For the one they call Johny Guitar
Play it again Johnny Guitar


この歌は今でも歌える。
音声が残っていることが本当に不思議だ。
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※2 怪談噺

陸上部の合宿でさ、夜、一人で外に出て、月見橋を歩いていたんだね。橋のたもとの街灯の下に、女性がたたずんでいた。「おい、きみ、どうしたの?」と声をかけたら、その女性が振り向いた。
   a face like an egg
「のっぺらぼう」だったんだよ。
おれは、あわてふためいて、月見橋から、全力で走って、合宿所に来たんだよ。
合宿所の玄関で岩田先生が、どういうわけか、後ろ向きになって立っていたんだね。
「岩田先生! 大変だ! 今、月見橋でね、のっぺらぼうが出た!」
そしたら、岩田先生が、
おもむろに振り返った。
「こんな顔だったか」
その顔が・・・・のっぺらぼうだった。

この話、なんのことはない、
ラフカディオハーンの焼き直しだが、
結構、受けました。

.:“You're fired!” ―「お前はクビだ!」

最近、ドナルド・トランプ氏の常套語として有名だが、
私はこんなセリフを、昭和36年~37年、塚原善兵衛校長に、
何回言われたかわからない。

通勤途上で私の自転車すれすれに追い抜いていった車があった。
なんか、変な車だなあ、とは思っていた。
学校に到着して、まず、校長室へ。 
  「校長先生、おはようございます」
  「あんたはクビだ!!」
  「え ???」
  「あんたは今朝、私の車に挨拶をしなかった!!
ああ、あの車!
 これは無理な話です。車の中からは見えても、
車の外から運転者を確認することは困難である。

で、翌日に校長室へ呼ばれた。
いよいよ解雇宣言かと観念していたら、善兵衛さん、
えらい、ニコニコ顔で
「今日から正規職員として採用する」
「え???」

正規の免許状を持つ者が臨時採用のまま、ということで
県から何か言われたらしい。
とにかく、「クビ」にならなくて、ほっとした。

宿直勤務で、水道を凍らせてしまったことがある。
水道を細く流して凍結を防ぐわけだが、
第1棟~第3棟まで回っているうちに、
はじめに調節した水道の水圧がさがり、水流が止まって凍結してしまった

早速、全校朝礼で、
「みなさん、今朝は第1棟の水道が出ませんね。
昨晩の宿直は佐藤先生です。佐藤先生は学問はできるかもしれないが、
常識というものを知らない。みなさん気をつけましょうね。佐藤先生はクビです!」

校長室へ呼ばれたとき、こんどこそ本当に解雇されるかと思ったら
またまた、えらいご機嫌よく、
「数学の先生がたりない。ついては、英語のほかに、数学もやってほしい」
「ええ??  それは無理ですぅ」
「あんたは文理学部出身だ。だから文と理ができるはずだ」

言っていることが、無茶苦茶。

でも、生徒の急増期で、職員の確保が、よほど大変だったらしい。

(註)このとき、強制的に数学をやらされた経験が、後々の私の人生に、
   実に大きな意味を持つことになろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。

「あんたはクビだ!」
は、この校長の、単なる、ご愛嬌であることを知った

でも、年配の先生方は、プライドもあり、「クビだ」といわれて、
いつの間にかフェードアウトしていくというケースも少なからずあった。

職員の身分保障は必ずしも安定していなかったと思う。

個性的なワンマン校長で、ある意味、面白いところがあった。
授業の中味や生徒指導のやり方について干渉するようなことはなく、
教師の自主性を重んじて、やりたいようにやらせてくれた。

だから学校全体に、意外に明るい、自由な雰囲気があった。

しかし、身分保障という面で、その将来性が不安定で、、
また、いろいろな学校を経験したいという気持もあって、
私は昭和37年秋、県立高校職員採用試験の受験を決心した。。。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
塚原学園については、まだまだ書き足りないのですが、ここで、ひとまず筆をおき、
次回から、野沢北高校の物語へと進みたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.3.24 (FRI)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

/IMG_0252.JPG" alt="" title="" >

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪聖地巡礼≫

南松本駅前
塚原学園物語
ここを直進します。

国道19号との交差点 
塚原学園物語
ここを右折して、国道沿いに進む。

松本平のシンボル電波塔
塚原学園物語
この電波塔、松本平のどこからでも見えます。
ここで左折して、笹部(ささべ)方面へ。

400mほど歩くと、ドームが見えてきました。
塚原学園物語

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

帰途は、松本駅西口を目指して、征矢野方面へ。

塚原学園物語
この川には、昔、透明な水が豊かに流れていたが・・・

征矢野交差点
塚原学園物語
直進して、ひたすら歩く。

塚原学園物語
上高地線「渚(なぎさ)駅

塚原学園物語

塚原学園物語

ここで、電車には乗らず、さらに直進。

国道19号、渚三丁目へ出てきました。
塚原学園物語
コンピュータ専門学校。

ここまでくれば、あとは、渚橋を渡ると、松本駅西口は、すぐそこ。

あちゃ! 通行止!
塚原学園物語

少し迂回して、無事、松本駅西口に到着。
塚原学園物語


全行程、5km ぐらいだったでしょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.2.2 (THU)














Posted by 六万石 at 05:36