2016年06月30日
「見えない」段差
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≪つぶやき≫
見えない段差
差別とは、単純に考えて、例えば、
スロープがない
→ 車椅子の方が参加できない
点字ブロックがない
→ 目の不自由な方が通れない
かつて、某Tホテルが、点字ブロックとかスロープを除去して
「差別」として大問題となった。
入ろうとしても入れない、
利用しようとしても利用できない、
そういうのが「差別」ではないだろうか。
聴覚障害者は、さまざまな場面で、
「入れない」
のである。
それは、スロープがなくて物理的に「入れない」と同様な差別ではないか。
健常者には見えないかもしれないが、そこに
「段差」
があって、入れないのである。
その段差は健常者には見えないだけである。
聴覚障害者は、日常そのものが
「見えない差別」
に取り巻かれているといえよう。
2016.6.29 ROKU
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
この記事へのコメント
コリ
見えなければ見えるようにしなければと思うのですが・・・
「解消法」で合理的配慮を受けることが権利として認められましたが、
権利を行使するには「意志表示をしなければならない。」と基本方針に書いてあります。
段差を見えるようにするには、自分が伝えなければならないのですね。
私たち難聴者は
、筆記通訳を通してか、または筆談でなければ、相手の話が理解できない
ということを理解してほしいのですが、そういう啓発活動も行うと基本方針には書いてあります。
言うは易しですが~~
Posted by コリ at 2016年06月30日 09:44
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コリ
見えない段差について(追伸)
見えなければ、相手にはそこに段差があるとはわからない。
だから見せなければ(伝えなければ)ならない。
「障害は我にあらずして、社会にある。」と言われますが、
難聴者にとって、要約筆記、筆談、手話、口話・・・
どれも完全なコミュニケーション手段とはなりえない。
勇気を出して、見えない段差を相手に見せることができて、
相手が理解しても、段差は低くはなるけれど、依然として残る。
それが見えない段差にとりまかれているということなのでしょうか。
前のコメントにあえて筆記通訳と書きました。
要約の技術よりも、
相手の言っていることを書いてくれるということが大切だ
という場合が多いのではと思ったからです。
(数学のノートとはとてもいえないようなものであっても、
見ればだいたいの内容がわかったと、ROKUさんが仰っていたからです。)
Posted by コリ at 2016年06月30日 14:45
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ROKU
「見えない段差」というタイトルから、なんとなく、
講演会などで情報保障が付かなくて、それが「みえない段差」となって、
聴覚障害者は参加できないことがある、ということかな、
そうお思いになる方もいらっしゃるかもしれない。
たしかに、そういうことも one of them には違いないのですが、
そのことだけに矮小化されるのは、私の本意ではありません。
日常生活において、職場で、家庭で、地域社会で、
ありとあらゆる場面で、
「聞こえないからできない」
ということが多すぎる。
要約筆記者がいるじゃないか、と言われても、
それは非日常であり、要約筆記者とともに毎日を暮らしているわけではない。
自分の周りの人とコミュニケーションがとれない、
意志の疎通ができないから、
ありとあらゆる場面に参加できなくて、
結局、黙っている以外にないということである。
ろう者のご夫婦とか、いわゆるデフファミリーとかの場合には、
職場や地域ではともかく、
少なくとも家庭内では、コミュニケーションが成り立っているわけで、
まことに羨ましいかぎりである。
じゃあ、どうすればいいのか、
それは、もう、世の中のみなさんに、
書いて伝えてください!
と、伏してお願いする以外にないわけだ。
コリさんがコメントで、ちょっと触れていらっしゃるように、
私も、要約筆記と筆談とは区別して考えたい。、
要約力がなければ筆談ができない、というわけではない。
追伸 ここでいう「筆談」とは、身振りや指さし、簡単な手話のようなものを含む
「広義の筆談」ということである。
2016.6.30 18:27
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≪つぶやき≫
見えない段差
スロープがない
→ 車椅子の方が参加できない
点字ブロックがない
→ 目の不自由な方が通れない
かつて、某Tホテルが、点字ブロックとかスロープを除去して
「差別」として大問題となった。
入ろうとしても入れない、
利用しようとしても利用できない、
そういうのが「差別」ではないだろうか。
聴覚障害者は、さまざまな場面で、
「入れない」
のである。
それは、スロープがなくて物理的に「入れない」と同様な差別ではないか。
健常者には見えないかもしれないが、そこに
「段差」
があって、入れないのである。
その段差は健常者には見えないだけである。
聴覚障害者は、日常そのものが
「見えない差別」
に取り巻かれているといえよう。
2016.6.29 ROKU
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この記事へのコメント
コリ
見えなければ見えるようにしなければと思うのですが・・・
「解消法」で合理的配慮を受けることが権利として認められましたが、
権利を行使するには「意志表示をしなければならない。」と基本方針に書いてあります。
段差を見えるようにするには、自分が伝えなければならないのですね。
私たち難聴者は
、筆記通訳を通してか、または筆談でなければ、相手の話が理解できない
ということを理解してほしいのですが、そういう啓発活動も行うと基本方針には書いてあります。
言うは易しですが~~
Posted by コリ at 2016年06月30日 09:44
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コリ
見えない段差について(追伸)
見えなければ、相手にはそこに段差があるとはわからない。
だから見せなければ(伝えなければ)ならない。
「障害は我にあらずして、社会にある。」と言われますが、
難聴者にとって、要約筆記、筆談、手話、口話・・・
どれも完全なコミュニケーション手段とはなりえない。
勇気を出して、見えない段差を相手に見せることができて、
相手が理解しても、段差は低くはなるけれど、依然として残る。
それが見えない段差にとりまかれているということなのでしょうか。
前のコメントにあえて筆記通訳と書きました。
要約の技術よりも、
相手の言っていることを書いてくれるということが大切だ
という場合が多いのではと思ったからです。
(数学のノートとはとてもいえないようなものであっても、
見ればだいたいの内容がわかったと、ROKUさんが仰っていたからです。)
Posted by コリ at 2016年06月30日 14:45
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ROKU
「見えない段差」というタイトルから、なんとなく、
講演会などで情報保障が付かなくて、それが「みえない段差」となって、
聴覚障害者は参加できないことがある、ということかな、
そうお思いになる方もいらっしゃるかもしれない。
たしかに、そういうことも one of them には違いないのですが、
そのことだけに矮小化されるのは、私の本意ではありません。
日常生活において、職場で、家庭で、地域社会で、
ありとあらゆる場面で、
「聞こえないからできない」
ということが多すぎる。
要約筆記者がいるじゃないか、と言われても、
それは非日常であり、要約筆記者とともに毎日を暮らしているわけではない。
自分の周りの人とコミュニケーションがとれない、
意志の疎通ができないから、
ありとあらゆる場面に参加できなくて、
結局、黙っている以外にないということである。
ろう者のご夫婦とか、いわゆるデフファミリーとかの場合には、
職場や地域ではともかく、
少なくとも家庭内では、コミュニケーションが成り立っているわけで、
まことに羨ましいかぎりである。
じゃあ、どうすればいいのか、
それは、もう、世の中のみなさんに、
書いて伝えてください!
と、伏してお願いする以外にないわけだ。
コリさんがコメントで、ちょっと触れていらっしゃるように、
私も、要約筆記と筆談とは区別して考えたい。、
要約力がなければ筆談ができない、というわけではない。
追伸 ここでいう「筆談」とは、身振りや指さし、簡単な手話のようなものを含む
「広義の筆談」ということである。
2016.6.30 18:27
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Posted by 六万石 at 15:03
│権利学習
この記事へのコメント
共生社会とは
不適切ではあるが
違法ではない
社会的障壁が是正されることである。
不適切ではあるが
違法ではない
社会的障壁が是正されることである。
Posted by 旅人 at 2016年07月01日 05:13