2017年04月24日

「要約筆記通訳者」では何故ダメなの?

「要約筆記通訳者」では何故ダメなの? ≪ニシダさんの掲示板から≫

 何故要約筆記が「要約筆記通訳」と言われないのか
 

甚だ疑問でならない。

手話通訳がある。
では、
要約筆記が要約筆記通訳であっても良いのではないか?
何か問題があるのだろうか?

要約筆記は通訳であると各セクションの機関誌を始め
多くの関連文章にも明言してある。

要約筆記を要約筆記通訳としないのは
難聴者差別に繋がる本質的な問題を孕んでいるのは明らかである。

では、誰が要約筆記通訳と公文書に明記する事を阻んだのか?
洩れ伝わってくる話しでは、
全ろう協の強硬な反対意見の前に、
全難協がおれた(妥協)という事らしい・・・真偽のほどは知らないが。

「ニシダツトムのそと。あそび」から引用
http://www.number7.jp/bbs/nishiart/
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ROKU

全体の流れとして、全難聴と全要研による要約筆記の定義
「要約筆記は聴覚障害者のためのコミュニケーション方法のひとつであって、話し手の内容をつかんでそれを筆記して聴覚障害者に伝達するものです。」
上記の定義は、少しもブレることなく、一貫して正しい
と理解しております。

「要約筆記者」という用語は、もともと全難聴並びに全要研が用いてきた用語であり、、
その限りにおいては、(この用語が)「差別である」と断定しきれない面があると思います。

しかし、一人の要約筆記利用者としては、「手話通訳者」と並列的に、
「要約筆記通訳者」とするのが、、
世の中一般に向けて、ごく、当たり前のありようだと思ってきました。

でも、私はそのことを、我慢して言わなかった。

ところが、2016年度の全難聴の文書の中に
「要約筆記通訳者」という用語が使われていたという。

ふと、本音が漏れたのかな?
本音が漏れたとすれば、私は共感している。

でも、その後、取り消されたという。

大変驚いています。

私自身は2015年度をもって、長野難聴を引退しておりますので、
その後の様子がわからない。

要約筆記のこと、みんな、いろいろ言いたいことがあるのに、
我慢して、
言わないでいらっしゃるのかな。

もし、そうだとすれば、
そのことが、一番の問題だ。
                                    2017.4.24
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訂正とお詫び

上掲の記事で「2016年度」は、正しくは「H16」。
編集者の読み間違いでした。
(投稿者のコリさんからご指摘をうけました。)
訂正してお詫びいたします。。
だだし、これは、当記事の論の本筋に大きくかかわることではないように思いますので、
記事そのものは削除をいたしません。

で、H16ならば、
    >では、誰が要約筆記通訳と公文書に明記する事を阻んだのか?
     洩れ伝わってくる話しでは、
     全ろう協の強硬な反対意見の前に、
     全難協がおれた(妥協)という事らしい・・・真偽のほどは知らないが。
と、ニシダさんの仰る通りですね。、

なお、コリさんからのメールで、
    >地域でも話が出ましたが「要約筆記通訳」と、
      「通訳」と言い続けることが大切!
とありました。
(ROKU)
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追記 2011.11.4

昨日、佐久の野沢北高校の「卒業50周年記念大会(昭和42年3月卒業学年同窓会)に、
旧職員として招かれ、行ってきました。

100名以上の出席者に、旧職員としてのスピーチ。
そのスピーチに入る前に私は、要約筆記者を紹介した。

「本日は難聴の私のために’筆記通訳’がきています」

「要約筆記者」という用語は、あえて使わなかった。
「手話通訳」なら、どなたも御存じなのだが:、「要約筆記」という用語は、
まだまだ世間に浸透していない。
同窓会の全体の流れ、スピーチの組み立て上のバランスを考慮すれば
ここは、さりげなく、
「筆記通訳」
で、さらりと流していくことが適切であろうと判断したからである。 2017.11.4

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Posted by 六万石 at 16:18 │要約筆記
この記事へのコメント
全くその通りだと思い、感銘を受けました。
(今日のニシダさんのブログも、「共に」の視点から書かれています。)

要約筆記通訳という名称に反対したのは、私も、ろう者の団体だと聞きました。
同じ釜の飯を食い同じ入れ物の中の空気を吸う者同士がやりあっていては、
食料も酸素も足りなくなりますます生きにくくなります。

私たちにとっては要約筆記も手話と同じ言語です。
だから手話通訳ならば要約筆記通訳です。

「母語は道具ではなく、精神そのものである。」(井上ひさし)
Posted by コリ at 2017年04月25日 11:05
【難聴者差別に繋がる本質的な問題】とは何かを何時も考えています。

「本質」とは、
何時でも、何処でも、誰でもが
当事者が求める要求(配慮)に寄り添う事と。

中途難聴者・失聴者への「配慮」とは、
何時でも、何処でも、誰もが「目で見える情報」を提供する事。

それを代行して目で見える形にする方法を「筆談・要約筆談」をすると云い、
「言語」を「文字『言語』化」する事を「通訳」すると言って差し支えないと思っています。
そして、文字言語化をする方を「通訳者」といえると思っている。

この通訳するという認識が何故必要なのかといえば、
私たちにとって主軸の「言語」は、手話でもなく言葉でもなく文字であるという事。
この点に置いて、一般常識として、
通訳するとした方があらゆる場面で「配慮」ではなく「義務化」される可能性があるという事。

ある種の立場を重んじる余り、
意識するしないにかかわらず、
他の者の立場を認めない、或いは、下位に置く意識を
「差別」と言う。

人間の歴史を紐解くと
差別されている者が差別する側になっている事がままあった。
集団、或いは、組織の外に敵を作る事が、
最も簡単な集団・組織内の非主流派(反対者)を封じ込める方法だから。

願わくば、共により良き高みを見据えて、
誰かが悪いと悪人探しをするのではなく、
共に前進して行ける道筋を共に歩む事が出来ればと切に願っています。
Posted by ニシダ at 2017年04月25日 09:04